私は羽生結弦さんのファンですが、一部の同担の痛い行動が気になるのです。
何故に「既に結果を出した推しの評価を、わざわざ外に求めに行くのか?」とモンペ気味のファンの行動を見て疑問に思う事があります。
誰も興味がないかもしれませんが、気になったのでいろいろな現象や心情を自分なりに分析したいと思います。
私が苦手なのは、陰謀よりの人、愛するあまりに過保護になるのは…。推し方は人それぞれなのでいいのですが…。
これを読む方がどちらのタイプかは分かりませんが、同じように思う人も逆だと思う人もいるでしょうけれども、こっそり自分の考えを言いたいだけなので、気に入らない方はスルーしてくださいm(_ _)m
- 人気投票に「わざわざ投票しに行く」ことに意義はあるのか?
- 「推し活を楽しむ為の遊び」としては意義がある?
- 「推しにかまって」系は厄介である!
- 困るのは「痛い行動ほど目立つ」ということ!
- 実際に軋轢があるのは否めないが……
- 「あちらを褒めてこちらを褒めない」は”否定”と感じますか?
- モンペはどの推しのファンにもいる
- 「数が多い」せいで怖がらせてしまう!(なんかごめん…って思う)
- 外側から褒められると嬉しいと思っちゃうのは仕方がない!
- 日本人は「他人に(外側から)褒められたい人種」だと思うのです。
- なぜかアメリカと比較しがち……。
- 「アメリカ=世界」と思いがちだけど……。
- 「羽生結弦選手」って呼びたくない。
- 引退会見と言えば
- 「アーティスティックスポーツ」という二面性ゆえの矛盾
- 好みは人それぞれだけど……。
- アドリブや感情を観客に正しく伝えるためには基礎が必要!
- みんながバレエダンサーのようになればいいのか?
人気投票に「わざわざ投票しに行く」ことに意義はあるのか?
時々、「人気投票で羽生君に投票して来た!」という報告や「羽生君に投票しようよ!」という声がX(旧:Twitter)から流れて来ます。
私はこれを見るたびに、何の権威もない「気まぐれに企画された人気投票」にわざわざ投票しに行くのはなぜだろうか?と、疑問に思うのです。
その投票が「世間から認知された権威あるもの」ならばまだ分かるのですが、「誰かが気まぐれに企画したもの」なので、それに乗っかること自体が滑稽に見えてしまうのです。
なぜなら、その投票は全国民の意志ではなく「投票した一部の人たち」の集計でしかないので、その結果は「負けず嫌いなファンの熱意」を競っただけであって、推しが上位にいないという事は負けたという事ではなく、「人気投票にファンが参加しなかった」というだけの事なのです。
その「得体の知れないコンテストに選ばれなかった」からといって「だから何?」と思います。
そのような投票で価値を証明しなくても、”羽生結弦という存在”は、「奇跡の逸材」だと思っているし、「既に十分な結果を出してトップクラスのアスリートとして評価されている存在」なので、今更なにをアピールする必要があろうか?と思っているので、そのような投票に意義はないと思っています。
「推し活を楽しむ為の遊び」としては意義がある?
こういうこと(投票)が好きなファンの心理としては、「ファンの熱意を測る場で戦いたい!」「推すのが楽しい!」という人が一定数いて「推しを推すというゲームを楽しんでいる」のではないかな?と思います。
もしかしたらその中には、「アイドルの推し活」から流れて来てそのテンションのまま推している人や、若い人やエネルギーが高い人が「有り余る愛を昇華させている」のかな?と予想しています。
私はその価値観が皆無なので、蚊帳の外から「楽しそうだな~」と傍観しています。
私はアイドルを推したことがないので「推し活」に興味がないし、エネルギーもないので、ひたすらに推しが存在している宇宙に感謝しながら生きているだけの人ですし、羽生結弦さんはアスリートという認識なので人気投票には違和感を感じてしまいますが、推し方は人それぞれなので、楽しんでいる人を否定するつもりはありません。
「推しにかまって」系は厄介である!
推し方は個人の自由とは言っても、愛をこじさせて周りを困らせる言動をしてしまうようになってしまうのは考えものです。
特にわたしが厄介だと思うのは「推しにかまって」系の人です。
「推しにかまって」系とは?
「推しにかまって」系とは、私が思い付きで考えた言葉で、「世間に対して推しを評価して欲しいという要求をする」人のことを言います。(似た言葉が別の意味で存在しているのかどうかは知らない)
例えば、フィギュアスケート選手やプロスケーターについて語る動画内で羽生結弦さんに関して触れられていなかった場合に、そのコメント欄などで ”羽生結弦さんについてはどう思いますか?こんな凄い活動をしていますよ!” などと、「もっと推しを褒めて!」と、ねだっているかのように推しを売り込むようなコメントをしている人の事です。
無邪気で悪意のない行動なので否定したくはないのですが、度を過ぎてしまった場合には恥ずかしいのでやめて欲しい!と思ってしまいます。
なぜ「推しにかまって」系は ”羽生結弦ファン” に多いのか?
わたしから見た印象では、その傾向は ”羽生結弦ファン” に多いような気がします。
(※同担の悪目立ちに対して私が敏感になっているからそのように感じてしまう可能性も考えられますが……。)
私が思うに、羽生結弦さんは名実ともにトップにいるので、ファンの目から見ると”その名前や功績に触れないでスルーする”という状態を不自然だと感じやすいのだろうと思います。
「トップにいる羽生君をスルーするなんておかしい!」と、ついアピールしに行ってしまうのかな?と思いました。
しかし私はその「推しを評価してくれ!」という感覚には違和感を持ちます。
羽生結弦さんは、既に世間から高い評価をされている存在なので、わざわざ評価を求めに行く必要がないと思うからです。
そして私はこのような行為は痛いモンペ(モンスターペアレント)の行動と同じように感じます。
自分の子供の評価を世間にアピールするために、「この子を人前で褒めてやってください。」「この子の功績を世間に宣伝してください」「この子を褒めてくれないのは何故?!」などと要求しているモンペのように見えるのです。
もちろんファンが個人的にSNSで推しを褒めあうのは全く問題のないことで、ファン同士で大いに盛り上がっていいのです。
気を付けないといけないのは、呼ばれてもいない他人のパーソナルエリアに入り込んで、「推しを褒めてくれ!」と求めに行ってしまうのは、相手を困惑させてしまうのでよろしくないということです。
推しにかまってもらえないと被害妄想に発展することも……。
もっと厄介なパターンになると、動画内で「推しについての話題が出なかった」「その他のスケーターを褒めたのに推しのスケーターを褒めなかった場合」などに、推しを否定されたと感じて、被害妄想が発動してしまう事があります。
推しを正しく評価をして貰えないと「何故に推しに触れないのだ!称えないのだ!」「闇だ!陰謀だ!」などと怒る人がいますが、これは頭がおかしい人に見えるので、「同担の評判をガタ落ちさせる、恥さらしな行動」といっていいと思います。
「触れない」=「落とされた」という風に条件反射的に感じるファンの人は多いと思いますが、それを実際に苦情を訴えるのは客観性が足りない気がします。
困るのは「痛い行動ほど目立つ」ということ!
おそらく痛い行動をとるファンはかなりの少数派ではないか?と思うのです。
しかし、残念ながら「大きい声が目立つ」「非常識な行動の方が目立つ」のは避けられない上に、羽生結弦さんのファンは総数が多いので、痛いファンが少数だとしても割合的に多くなって世の目に触れてしまうというのは避けられないということがもどかしいところです。
実際に軋轢があるのは否めないが……
”被害妄想”といっても、妄想だけではない場合もあると思います。
羽生結弦さんに関しては、私個人の感想では、「羽生比でジャッジが厳しくなってない?」とか、「圧倒的に強いあまりに勝ちにくくされていないか?」という疑問をふんわりとですが感じることがありましたし、若いときには先輩スケーターのファンに叩かれたりなどの ”これまでの歴史” を見ると過保護になってしまう心情は私にも分かります。
しかし、擁護と被害妄想との区別をしっかりと持つことが必要だと思うのです。
下げ記事やゴシップなどの推しの尊厳を傷つける発言に対しては、歴然と立ち向かうという事が必要だと思います。
ただし被害妄想との区別を自身で客観的に見分けることができないと厄介なモンペになってしまう危険性があると思うのです。
ここで大事なのは「正しく擁護する」ことと「過保護になる」ことは別物なので、客観的に見て自分がどんな言動をしているのか?を観察することが必要だと思っています。
「あちらを褒めてこちらを褒めない」は”否定”と感じますか?
「あちらを褒めてこちらを褒めない」という行為は ”こちらを否定している” と感じる場合があると思います。
実際にインタビューや動画内で推しを褒めなかったことに対して、「推しを否定しているのか?」と不満のコメントをする同担を目にする事があります。
しかし、それこそが被害妄想であることに気づいて欲しいのです。
「あちらを褒めてこちらを褒めない」というのは、意図的にこちらを落とす意識があったとは限らないので、「落とされたと感じるのは”気のせい”かもしれない」というように客観的に見ることが必要だと思っています。
私も他のスケーターを褒めたのに羽生結弦さんについて触れない時には「触れてくれないんだ?」と寂しく感じる事がありますが、それは”被害妄想”かもしれないと認識しているのでそれを主張することは違うと思っています。
”意図的”な場合でも”許容する余裕”を持っていればいい
しかし、「あっちが立てばこっちが立たず」という場面もあると思います。
テーマや視聴者が特定のスケーターに偏っている場合はその場の空気を読んで他のスケーターには触れないこともあると思います。
そんな時は、「今回は”あちらに向かって”話しているのね?」と静観していればいいと思うのです。
もしかしたら悪い意味で ”こちらを落とす意味であちらを褒める” という場合もあるかもしれませんし、”あちらのファンに気を遣ってこちらには触れない”という場合やその逆もあると思います。
その場合も下手に反応せずにスルーすればいいのではないか?と思っています。
モンペはどの推しのファンにもいる
愛あるあまりに過保護(モンペ)になってしまうというのは、羽生ファンに限らずともどの推しのファンでも良くあることです。
「不遇な目にあう」ことは、どのスケーターでもありうることだと思います。
立場や見方が違えばそれぞれの意見があるものです。
推しの処遇が理不尽だからといって「当たり所を間違えていないか?」「罪のないスケーターに矛先を向けていないか?」などは客観性をもって考えるべきだと思います。
スケーターは「どちらも人の子」です。
「ファンがつぶし合っていい対象ではないよな?」と思い出して欲しいと思うのです。
「数が多い」せいで怖がらせてしまう!(なんかごめん…って思う)
悪気はないのに、数が多いせいで怖がらせてしまうというのは ”羽生ファンあるある” だと思います。
羽生ファンじゃない「外側の人」から不意に褒められると嬉しくなってつい反応してしまい、「いいねとかリツイートとかめっちゃきちゃって驚かせちゃう」ということは、羽生ファン以外でも良くあることかもしれません。
ただ羽生ファンの総数が多いので、不本意ながらシャレにならないくらいにバズらせてしまって相手をビビらせてしまうということが多々あります……。
これは悪意がないので許してほしいですね。
「なんか、怖がらせてごめん」って思います。
ただそれにも厄介なパターンがあって、うれしさのあまりそこから「あの作品もいいですよ!これも見てください!」などの聞かれてもいないのに”押し売り”をしてしまっている人を時々目にしますが、通りすがりにそれをされると相手側はかなり引く(怖がらせてしまう)と思うので、それはやめてくれ~と思ってしまいます。
外側から褒められると嬉しいと思っちゃうのは仕方がない!
推しに興味がない人が不意に作品を見て褒めてくれたりすると無邪気に喜んじゃうのは、自然な反応だから仕方がないですよね。愛、故だと思って許して欲しいです😅
ファンは「ファンであるがゆえに推しを”ひいき目”で見てしまっているのかもしれない」という自覚や不安を薄っすらと持っているので、元々推しに興味がなかった人に評価されると、「純粋な目で見て認められた!」「推しを知らない人から見てもやっぱり推しはすごいんだ!」と推しの実力を再確認できて嬉しくなっちゃうんですよね。
特に羽生ファンは痛いおばさん扱いされたり、色物扱いされたりなどのトラウマや引け目を感じてきたという歴史があるので、外側からの曇りのない評価があると、「羽生さんはおばさんの愛玩動物じゃないんだよ!実力があるからファンが多いのだよ!」と再確認できたことで安心するのではないか?と思うのですよ。(”ユズリスト”揶揄へのメディアへの恨み忘れ得ぬ…)
日本人は「他人に(外側から)褒められたい人種」だと思うのです。
本題からずれてしまいますが、 ”外側から褒められると安心する” という繋がりで、いつも思っていた事があるのですが……、日本人って「外側から評価されないと自信が持てないという傾向」が強いと思いませんか?
「海外から見た日本の魅力!」「日本リスペクト!」みたいな、日本人が日本人を褒めるんじゃなくて、「海外の人にいいところを答えてもらう」みたいなテレビやYouTubeの企画が最近多いですよね。
それを見るたびに「日本人って、自分で自分を褒めるのが苦手だから外側から褒めて欲しいんだな」っていつも思います。
私も外人が日本を褒めている動画とかをついつい見ちゃいますし伸びていますよね。
多分アメリカ人だったら、「我が国最高!」っていつも思っているだろうから、他の国の人からの評価なんて全然気にしてなさそうだし、あえて他の国から褒められるところをフューチャーした番組があったとしたならば、視聴者からはその様子が逆に「卑屈に見える」か「傲慢に見える」かどちらかのような気がします。
そして、「他人の評価を欲しがるなんてダサい!」「自画自賛がかっこいい!」という風潮があるのでは?と思います。(勝手なイメージだけど)
私は、「外国の人が日本のこのようなテレビを見て、奇妙に思うのではないか?」と思うのですが、どうなんでしょうね…。
アメリカ人は自らを自慢するしその方がカッコイイのです。
控えめの美学なんてないのです。
他人の評価を待つよりもすがすがしいと思います。
それについて私が印象的に思っていたことがあります。
昔ヒーローズというアメリカのテレビシリーズで「マシ・オカ」という日系のアメリカ人が有名になって、日本に来日してその時期たくさんテレビに出ていたのですが、ある時「僕は何々大学を出てるんだ!」と誇らしげに言った途端に、お客さんの入っている会場だったのですが目に見えるように一気にその場が凍りつきました。
本人も「え?何があったの?」という感じで固まったシーンが忘れられません。
そしてその直後から、テレビでその人を全く見なくなりました。
きっと、それをきっかけに日本の文化にカルチャーショックを受けて、日本が合わないと思ってテレビの出演をぱたりとやめたのではないか?と思いました。
そして、それはわたしが日本とアメリカのカルチャーの違いはっきりと見せつけられた瞬間でもありました。
私はとても衝撃を受けたのでその瞬間をよく覚えています。
きっと本人はその氷ついた会場の空気がトラウマになったのではないかと予想しています。
この「自画自賛を受け入れ難い」という感覚は日本人にしかないものなのでしょうかね?
もしかしたら「謙虚が美徳」という感覚は極めて少数派で日本特有のものなのかもしれないと思いました。
なぜかアメリカと比較しがち……。
今回私はアメリカを例に出しましたが、つい私(日本人)が比較対象としてアメリカを使ってしまうのはなぜだろう?とふと疑問に思いました。
アメリカ人と日本人は真逆なので比べやすいからでしょうか?
そして他の国のことはあまり知らないというのもあるかもしれません。
日本は戦後、アメリカによってコントロールされてきましたから、アメリカのことは身近でよく知っているんですよね。
そして無意識化で「アメリカ=世界」って思ってしまいがちな傾向はありませんか?
それはアメリカが身近という理由だけじゃなくて、「アメリカという国自身が「アメリカ=世界」と思っている」ということにも影響を受けているのかもしれません。
「アメリカ=世界」と思いがちだけど……。
アメリカと言えば、私は同世代の羽生君と大谷君を比べてしまう時があります。
羽生君には世界中にファンがいるとは言え、フィギュアスケートはマイナースポーツなので興味がある人にしか注目されていないけど、大谷君はメジャースポーツである野球選手だから、毎日ニュースになっているし、日本においてもアメリカにおいても認知度が半端なくて、大谷君の方が「世界の大谷!」というイメージがあるなぁ…って思っていたのですが、ある時ふと「あれ?野球ってアメリカだけじゃない?」と思い、大谷君は「世界ではなくアメリカのみで有名なのだ」ということに気づきました。
つい癖で謙虚な姿勢で捉えてしまっていましたが、羽生君の方が世界規模での浸透率が高いのではないか!?と気づいたのです。
私は無意識にアメリカを過大評価してしまうくせが出てしまっていたのかな?と思いました。
「羽生結弦選手」って呼びたくない。
羽生さん自身が「プロになっても”アスリート”である)」ということをプロ転向の記者会見の時に強調していたので、「羽生結弦選手」という呼び方を敢えて使うということが、羽生ファンやどこかの公式の中の人などで流行りましたが、私は違和感を感じています。
それは単純に、競技を引退して選手ではなくなったのに「選手」という呼び方をわざわざすることに違和感を感じますし「事実誤認」を起こすのでややこしいと思うからです。
羽生さんは選手を引退しても ”アスリート” であるということを強調してはいましたが、文字通り「羽生結弦選手」と呼ばれることを望んでいるのか?というと、私の勝手な予想ではありますが「選手」と呼ばれることは求めていないような気がしました。
とは言え、それは好意を強調する遊び心の現れなので肯定的に受け止めてくれているだろうとは思っています。
私もそれを肯定的に捉えてはいるものの、不自然さを感じると”痛い”と感じるたちなので、「羽生結弦選手」と称しているのを目にすると、つい条件反射で拒否感を抱かずにはいられないのです。
引退会見と言えば
引退会見と言えば、羽生さんが敢えて”引退会見”という表現を避けて”決意表明の場”という風に表現したのは、他のスポーツは引退するとプロの選手になりますが、フィギュアスケートには選手というカテゴリーは”アマチュア”でしか存在しないので、プロになると選手ではなくなるのですが、プロになっても自分は”アスリート”のままであると言いたかったのだと思います。
先述の「羽生結弦選手」という言葉には違和感があるけど「プロのアスリート」という言葉には違和感を感じません。
プロスケーターになった羽生結弦さんは間違いなくアスリートです。
実際に選手時代よりもきつい鍛錬をして選手時代よりもきついプログラムをこなしています。
「アーティスティックスポーツ」という二面性ゆえの矛盾
フィギュアスケートではプロのアスリートがいないというのはアーティスティックスポーツならではだと思います。
フィギュアスケートはプロになったらショースケーターになるので、必然的にアスリートではなくアーティストよりの活動になっていきます。
それ故に、大抵のスケーターはアスリートよりもアーティストであるという意識が強いように見えますが、そんな中でフィギュアスケートは「スポーツ」でもあり、自分は「アスリート」であるということを強調したのはストイックな羽生さんらしいと思います。
フィギュアスケートは「アーティスティックスポーツ」なので「アーティスティック(芸術)」と「スポーツ(競技)」という真逆の性質ものが共存するのですが、どちらかだけでは成り立たないのが難しいところですし、どちらを重視するのか?を選べるというのも面白いところです。
スケーターの得手不得手によって個性が出ますし、実力の証明の仕方の幅が広い特殊なスポーツだと思います。
そして、フィギュアスケートは芸術と競技という相反するものが共存しているせいで、芸術でもない、スポーツでもない、中途半端なスポーツだともいえるので、どちらの面においても中途半端なままでいる事が出来てしまうあやういものでもあると思います。
特に芸術の理解度や肉体を使って表現するという面では、素人っぽいまま雰囲気で誤魔化すことも出来るし、玄人はだしにもなれるので、スケーターそれぞれの認識や鍛錬の違いによって雲泥の差が生まれるので、本人の心得次第でいかようにもなれるというシビアなスポーツだとも思います。
好みは人それぞれだけど……。
私は技術も身体表現もどちらも重視するので、雰囲気で誤魔化すだけのスケーターのことはあまりリスペクト出来ません。
とは言っても「雰囲気で人を魅了できる」ということ自体が才能なので、身体表現が素人っぽくても演技が魅力的なスケーターを見るのは好きです。
というか実情、ほとんどのフィギュアスケーターは雰囲気ものであると思っています。
しかしそれは最低限の基礎が出来ているからこそ雰囲気が出せるという風にも思っています。
最低限の基礎もないのに雰囲気で誤魔化せると思うのは勘違いです。
アドリブや感情を観客に正しく伝えるためには基礎が必要!
スケーターが気持ちいい演技をしたと思っても、観客にそのように見えるのか?は別なので、独りよがりの満足で終わるのか?観客に感動を伝えるのか?は身体表現の基礎が出来ているか否かによります。
そしてそれがアマチュアスケーターとプロのスケーターとの違いだと思います。
プロになるならそこは最低限満たすべきだと思います。
私が不思議に思うのは、世の中では評価が高いのになぜか私には響かない!というスケーターが何人か存在するのですが、それが私に響かないのは好みの問題なのか?そのスケーターに基礎が足りないゆえなのか?は、私にそれらの基礎知識がないのでよくわかりませんが、少なくとも「響いてこない」という事は身体表現能力が「高水準に達していない」という事だろうとは思います。
身体表現の基礎を高水準で自分のものにしているスケーターの演技は個人の好みを超えて圧倒的に訴えてくると思うからです。
みんながバレエダンサーのようになればいいのか?
身体表現の美しさと言えばバレエですよね。
フィギュアスケートではバレエの基礎を身につけていると役に立つので、フィギュアスケートとバレエの基礎は切っても切れない関係ではあるのですが、だからといってみんながバレエダンサーのようになったらいいのか?というと、それはなんだか気持ちが悪いし個性がないな~と思ってしまいます。
フィギュアスケートが中途半端なスポーツだからこそ、偏りを個性として許容できる事もフィギュアスケートの面白いところだと思っているので、いい意味で中途半端な身体表現でも大丈夫という逃げ道があるのはいいことだと思います。
とは言え、中途半端なままだとトップレベルにはいけないというのも事実なので、トップレベルにいきたいのならば、芸術と競技の両方を鍛錬しないといけないというのが避けられない道だと思います。
どちらの道を目指すのかは本人の自由ですが、その自由度がフィギュアスケートの面白いところだと思っています。